凍りついたままの母の言葉
和解をさがす旅としての終活
母との言い争いのさなかでした。
夕食後、何についてであったかは覚えていませんが、母の価値観、世界観を私が共有しないことに、母はいらだっていました。
「あなたは女として失格だ。あなたは自分勝手に生きている。私は絶対あなたの生き方を認めない」
私が冷静に自分の立場を述べると、母の怒りはさらに燃え上がりました。
ついに自分をコントロールできなくなったのか、母は髪を振り乱し取り乱してある言葉を私に投げつけたのです。
私は冷ややかな目で、母の心が乱れていく様子を眺めていました。
母が言った言葉。
それは、親として振るうことの出来る最大の権力の行使でした。
「あなたを廃嫡することもできるんだからね。」
家の籍から抜くという意味のその言葉は、明治時代ならともかく昭和の時代に、しかも娘にむかって言うには滑稽な響きさえありました。
しかし、当時二十歳過ぎだった私は、言葉の意味もわからずきょとんと聞いていました。
おそらく母は、自分が支配していると思っていた娘の中に、自分の知らないものがあることに狼狽していたのでしょう。
取り乱し、言葉を失いかけたその瞬間、母は親が持つ力を振りかざすほかなかったのだと思います。
***
母の言葉が心の傷として長いこと私の中にあったことに気づいたのは、つい最近のことです。
言われてから五十年近い歳月がたっていました。
覚えていることさえ覚えていなかった母の言葉。
それは凍結した形で、私の心の奥に潜んでいたのです。
「トラウマ(心的外傷)」とは、受け取る側に準備ができていないまま、突然その人の中に入りこんだ衝撃です。
その記憶は、言葉を与えられぬまま凍りつくのだと、かつて私自身が研究書で書いています。
まさか自分の中にも、そうした凍った記憶があったとは思いもしませんでした。
***
思えば母は、娘への執着が異常に強い人でした。
よい嫁、よい妻、よい母を演じることに人生をかけていた母にとって、
私という娘は、自分を世間に証明するための作品だったのかもしれません。
花嫁になるための学歴をつけさせ、卒業と同時に条件のよい男性と結婚させる。
それが母の描いた設計図でした。
大学に入るまでは母の思惑通りに事が進みました。
しかし、大学卒業がちかくなると、縁談を持ってくる母と、自己実現の方法を模索する私との乖離がはっきりしてきたのです。
母の設計図からはみ出した娘は、二十歳を過ぎるころから、
自分の中に「お勉強ではなく、真実と呼べる何かを追求したい」という思いをかかえていたのです。
結婚してからも夫に黙って大学院を受験し、旅行鞄の底に修士論文の草稿を忍ばせて夫の実家に帰省し、台所に立ちながら研究者になる道を歩みました。
母の描く女性の姿から外れていく娘を、母は許すことができなかったのだと思います。
若い日々を母に差し出していたのだと思うと、
今も「私の青春を返して」という声が私の中から湧いてくることがあります。
***
母は最後まで私とつながっていたい人でした。
九十一歳ですい臓がんの緩和ケア病棟に入院してから、息を引き取るまでの二週間あまり、母からは毎日携帯メールが届きました。
たどたどしい文字で「明日の朝のメール待っています」と繰り返し送ってくる母。
その執着をうっとうしいと思うこともありましたが、それは母が娘とつながるための最後の手段だったのでしょう。
私もまた、毎朝そのメールに返事を返しました。
廃嫡すると言い放った母と、その母からのメールを待つ娘。
矛盾するようでいて、それはどちらも私の姿だったのだと思います。
母を送って六年。私はまだ、母との和解をさぐる道筋の途中にいます。
許せないという気持ちと、いとしいと思う気持ち。
両方とも、いまだに私の中に生々しくあります。
それでも、自分の人生を自分で選びとって生きてきたという自信と誇りだけは私の中にあります。
もしかしたらそれこそが、
いつか母との和解へと私を導いてくれる道しるべなのかもしれません。
***
母と一緒に軽井沢で過ごした思い出は、ハルゼミの声とともにあります。
なつかしさの中で、母との和解の道を考え続けるなかで私の終活は続きます。



感動/共感しました。
くりちゃん、おはようございます。
「許せないという気持ちと、いとしいと思う気持ち。
両方とも、いまだに私の中に生々しくあります」心に響きました。
確かに、お母様への想いと、自分の人生を選びとって生きてきたという自信と誇りが、和解への道しるべかもしれませんね。
親の言葉で心が傷ついてトラウマになること多いと感じます。
思考が深まる記事をありがとうございます🎶